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22/08/05 遊びながら世界を学ぶ教文館の知育カードとパリの尖端空間・駐車場の美!?

■先週は、新着品のご案内をさぼってしまい失礼いたしました。こちらは繰り返しになりますが、先ずは夏休みのお知らせを。
8月6日(土)と8月9日(火)はそれぞれ12時より19時で通常営業した後、8月10日(水)より8月17日(水)まで夏季休業させていただきます。
ご不便をおかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
コロナの感染拡大が依然続くなか、今週は列島各所、猛暑と豪雨に見舞われる過酷な夏となりました。どうかくれぐれもご用心のうえ、よい夏休みをお過ごし下さい。

先週から繰り越しとなった新着品のご案内です。1点目は、教文館が発行した『国際子供 はめ絵カード』。これが実によく出来た世界文化を学ぶための知育カードで、日本、支那、アメリカ、イタリー、オランダ、ロシアの6ヵ国をとりあげたもの。それぞれの国ごとに、①お手本にあたるカラー印刷されたカード、②二つ折りで背景が起こし絵になる線画のカード、③型抜きした線画の人物 という①から③が揃ってワンセットとなります。当品は、お手本にあたるカードの絵の部分に窓をあけた専用の袋付
「日本」のお手本カードに遊び方が記されていて、抜き書きすると-
「この遊びには六つの國が出て居ます。皆さんはこれに色をぬつて、きれいにして、お客様ごつこや、世界漫遊や、其他色々なおあそびにつかつて下さい」
というもの。
②の背景が起こし絵になるカードの台になる方のスペースには、どれも二筋の切れ込みがあり、人物のカードについている足の部分を折って差し込めば、ジオラマのような、簡易模型のような、簡単なオブジェが出来上がるという仕組みです。
絵の部分に「mitsuko」のサインがある以外、誰のテキストか、いつの発行かは不明。mitsukoについても一体誰なのか、残念ながらたどりつけておりません。
試しに国立国会図書館の蔵書から、1900年から1945年までの間に教文館から発行された刊行物で、タイトルに「子供(子ども、こども)」の文言が入るものを検索すると22件。そのほとんどが1927年から1932年(昭和2年から昭和7年)に集中しています。また、その書き手の多くが村岡花子。このカードもこうした路線に沿って企画されたのではないかと考えたくなりますが、これはあくまで当て推量。
ですが、「シナ(支那)」のお手本カードに記された文章-「日本に一番近いのは支那/昔は色々の先生が来て私共に/よいことを教へて下さいました。/たくさんの日本人が支那に行き/たくさんの支那の人が日本に来て/住んでいます。/私共はお隣どうし、もつと仲よく/なれば、どんなに愉快でせう。」-を見る限り、日中戦争前夜の1930年前後とみて間違いないように思います。 

もうひとつ。教文館がアメリカから派遣されたメソジスト教会の宣教師たちがつくた組織から発したことを考えると、ヨーロッパから何故ドイツでもイギリスでもなく、イタリアとオランダが選ばれたのか…? こちらは謎のまま。
それにしても中国のカードに書かれている「もつと仲よくなれば、どんなに愉快でせう」という一文。例え難しいことだとしても、理想を掲げない限り理想には近づけないことを思うと、軽いようで重い言葉だと思います。

■よくよく考えてみると、都市の中にガレージだとか駐車場が必要とされるようになったのはごく最近、せいぜいこの100年ちょっとのことであり、モダニズムの時代、駐車場や自動車のショールームというのは都市における最先端の空間だったといえます。
『GARAGES et Salles d'Exposition(ガレージとショールーム)』は、パリの大規模駐車場と自動車販売のためのショールーム建築に的を絞った建築資料集。
ポートフォリオに未綴じのプレートを46葉収めた第1巻と56葉を収めた第2巻の2冊揃い。プレートも欠けなく、それぞれに解説の冊子もついています。
画像には写真図版のプレートをとりましたが、平面図、立面図、構造図、動線図などの図面のプレートと写真プレートとが半ばする構成となっています。同時代の建築関係プレート集のなかで、当書ではやけに図面類が多いのが特徴。
パリの大型駐車場やショールームの平面図を見ると、オスマンによるパリ大改造の頃の建物と比べてショールームでは天井を高く、駐車場では柱を減らすなど、建築物の躯体に関わる変更点があった可能性があり、図面類が多い理由はこの辺りにあるのかも知れません。
この2巻揃い、もう10年ほど前になるでしょうか、最後にパリに行った際に彼の地の古本屋さんに勧められたことがあります。「モダニズム文献にピッタリ。ポートフォリオのデザインまで"ウリ"になる」と。
とくにポートフォリオのデザインに心惹かれたものの、値段を聞いてあっさり退却することに。10年ぶりの邂逅がまさか日本の市場でのことになろうとは思ってもいませんでした。
ポートフォリオの内側には戦前、海外の書籍・雑誌の輸入販売で知られた「明治書房」のシールがあり、いま古本屋としてやってこられたのは、遠い昔の日本人の勉強熱心さによるものと改めて頭を垂れました。これから先の日本の古本屋には、一体何が残されるのでしょう…?

今週の斜め読みから。
繰り返しとなってもこの点は精査されないとね。というガーディガンの記事。翻訳はこちら→ The Gardian
下〇〇文は何枚舌だ!? … というのがゲンダイに。
一覧表も見つけたぞ! 読売さんで。
ともあれみなさまどうかご無事で!
 

 

22/07/30 新着品は月曜日に。今日は夏季休業のご案内です。

■今週の新着品のご紹介は来週月曜日に。
今日は夏季休業のお知らせです。
店は8月10日(水)より8月17日(水)までお休みさせていただきます。ご不便をおかけいたしますが、ご留意いただければ幸甚に存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。

FRAGILE BOOKSの「今週の1冊」は、ここのところ立て続けにほぼ即売れという僥倖に恵まれました。大変有難いことと感謝いたしております。
上質なサイトを通じて、商品を画像でしっかりとご覧いただき、詳細な原稿を添えて丁寧に販売することの大切さを、改めて学び直しています。
それだけに、得心がいくかたちにするためには時間がかかるもので、これまで通り週1回のペースでのご案内となると、他の仕事に差しさわりが生じるなど、多少の無理が出てくることが予想されることから、日月堂から発信する「今週の1冊」は8月より、毎月第一金曜日・月一度の出番とさせていただくことになりました。
これからもHP、FRAGILE BOOKSともども是非ご笑覧いただきたく、引き続きご愛顧を賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

■画像は先週の「今週の1冊」でアップした ともおくん(1965年頃東京在住・小学2年生)のスケッチブック。今日も市場には子どもの描いた絵が出ていましたが、ともお画伯の絵とは何かが違うということを確認してスルーしてきました。何かとはっきり云えない何かがあるのが画伯が画伯である所以なのでした。
あ! FRAGILE BOOKS は → こちらから!  よろしくお願いいたします。

 

 

22/07/22 安保闘争下の大学で 『批評運動16』と『立教祭』のパンフレット

■暑さが戻ってきました。コロナまで戻ってきてしまいました。店内時々換気にも努めたく、うちわなどもご用意してご来店をお待ちいたしております。店内では不織布マスクの着用をお願いいたします。暑い中、誠に恐縮に存じますが、ご理解・ご協力を賜りますようお願い申し上げます。

決して手を抜きたいとかそういうことではなく(笑) この雑誌に関する説明を引用から始めることにしました。
「日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ」より「中村宏オーラル・ヒストリー 2012年3月30日」(引用元はこちら!)の一部。
[以下引用]
加治屋:ちなみに『批評運動』は今、多分日本で残ってるのは東京都現代美術館美術図書室だけで、12号から18号まで残ってるんです。これが最終号かどうかっていうのは、ご存知でしょうか。
中村:それがわかんなくなっちゃった、私も(笑)。多分18号まで出したらもう、続けるお金もないし、パワーもなくなっちゃって、多分この辺りで終わっちゃってるんじゃないかな。せいぜい。これ、ここ(東京都現代美術館)の図書室の?
藤井:先生がお持ちくださった。中村文庫です。
中村:あ、僕が寄贈したあれですね。ピンクの表紙のはなかった? 確かピンクのが『批評運動』にあった気がするけど、もしないとしたらこれの次の19号が。
鎮西:16、17号がなぜかない(注:中村宏の寄贈資料中に、という意味)。
中村:いや、全部通し番号では入れてません。僕も持ってなくて、飛んじゃって。だから資料としてはちょっと怪しいねこれ。
鎮西:でも残ってるのは、これだけなんでしょう。
中村:そう。
鎮西:普通に1号からスタートしてるんですよね。
中村:うん、1号ね。その3人で出したもんで、3人のうち誰か持ってる可能性あるけども、毛利ユリはもう亡くなっちゃった。遺族の人も、多分わかんないと思う。
[引用ここまで]

この部分を補足すると、東京都現代美術館の中村文庫(中村宏寄贈)に入っている『批評運動』にはないとされている16号と17号については、「複製」が収蔵されています。
画像では分かりにくいのですが、今週の新着品『批評運動 16』は、複製ではなく元版なので、上の引用が正しければ日本に残っているのはこれ1冊きりという可能性があることに。また、表紙は薄いピンク色なので、中村宏が記憶している「ピンクの表紙」が当該号だった可能性も。なかかなかお目にかかれない雑誌であることは確からしい。
さて、この『批評運動 16』、わら半紙36Pの本文は4段組みテキストのみという地味な雑誌です。たいへん地味ですが、しかし、中村宏と一緒にこの雑誌を始めた二人というのがなかなか面白そうな人物で -
ひとりは日大芸術学部で一緒だった毛利ユリ(本名 榑松栄次)。吉本隆明と親しく、瀧口修造に戦争詩があることを掘り出し「早くも瀧口修造さんを批判した最初の男」(中村宏オーラル・ヒストリー)。日芸では写真を専攻、晩年は出身地近くで起こった浜岡原発反対運動に加わったと云います。
もうひとりが大久保そりや。「在野の言語学者」としてwikipediaにも項目のたつ大久保は、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』の「批判を大展開」(中村)するなど言語論からのアプローチによる批評活動を続けたようですが、注目しておきたいのは大久保のSF論。wikiによれば下記の通り。
--小堀靖生名義で発表した「SF論序」で、SFを「サイエンス・フィクション」ではなく「スペキュレイティヴ・フィクション」と考えたいと表明。世界的に非常に早い時期のニューウェーヴSF論であるとされ、日本で初めて「スペキュレイティヴ・フィクション」という名称を用いた…… と、今後どのような評価が加わっていくのか注目しておきたい人物です。
1950~60年代初め、安倍公房に寄り添うようにさまざまな運動に関わった桂川寛や、桂川らによる小河内村の「文化工作隊」に参加した尾藤豊の名前があるのは、中村も参加していた「青年美術家連合」からの縁続き。
人が集まって運動を起こし、運動が起これば新たな人とのつながりが生まれ、そこからまた新しい運動が立ち上がるという1950~1960年代のありようを色濃くうつした雑誌だといえそうです。
1958年といえばいまから64年前の昭和33年。確かに半世紀は超えているとはいえ、たかだか64年前の雑誌がそれほどみつからないものなのか? と疑問に思いふと考えました。自分が生まれる64年前は一体何年だったんだ?
答え。1897年=明治30年。
なるほど。マイナーな雑誌であれば見つからなくても全然おかしくないわけですねはい。

■小店店主が入学した1980年当時、立教大学では学園祭というものがありませんでした。学園闘争当時の学園祭に警察が介入したことがあり大学の自治が保てなくなったから、というのがその理由だと聞かされていましたが、卒業したその年から復活したのは何とも運のなかったような、グループ活動が苦手な人間にとっては幸いだったような(学園祭が行われなかったのは1976年から1983年まで)。今週の新着品2点目は、1970年から1973年までの学園祭「立教祭」のパンフレットと同時代の「新入生歓迎実行委員会」が発行した小型ポスター兼プログラム
パンフレットは全てB5サイズ・64Pまたは56ページ。学校側が中止に踏み切る前の学園祭の内容はといえば…
1970年「視座 不可視の牢獄 破壊!その序」/安永寿延講演/状況劇場立教祭紅テント興行「愛の乞食篇」/方法としての映画(今村昌平、加藤泰、若松孝二、足立正生、小川伸介、土本典昭作品上映)他
1971年「魂よりの叛逆」/滝田修講演/ROCK IS LOCK(はちみつぱい他)/映画上映(小川プロ 三里塚シリーズ他)/吉田拓郎公演「吉田拓郎の世界と現代」他 

1972年「寂寥の中をゆく修羅よ ぼくら黄昏の下 ひそかに眠れ」/シンポジウム 真崎守+斉藤次郎/状況劇場紅テント公演 乞食オペラ「鉄仮面」/ギリヤーク尼ケ崎「はるか修羅の彼方を指して」/ドイツ表現派映画/ロマン=ポルノ+シンポジウム/三里塚青年行動隊 映画+講演 他
1973年「伏魔殿への迷宮」/各局アピール 全共闘運動の豊かな水脈の継承を/シンポジウム「教育」と「大学」とり狭間にて/紅テント再興行「海の牙」/もうひとつ別の映画(ボルタンスキー作品集、トマトケチャップ皇帝他)
新入生歓迎実行委員会の小型ポスター兼プログラム「位置」/小川プロダクション提供による「三里塚木ノ根団結小屋遠景」の写真をバックに石原吉郎の詩「位置」を配した表面/裏面にこの詩と詩人に対する批評を柱とした新入生歓迎行事の主旨(テキスト長文)と歓迎行事のスケジュール(頭脳警察他によるロックフェスティバル、東京キッドブラザーズの公演、ブニュエル作品集上映、飯村隆彦作品集など)
牢獄に破壊に叛逆、修羅やら伏魔殿やら毎年のコンセプトを表明するキッチフレーズからして何やら不穏です。
いまでこそ完全ノンポリ、何だかおしゃれ系にみられることの多い立教大学ですが、この内容を見る限り、少なくとも1970年代はじめの学園祭は思想と政治の季節の真っ只中にあったことがよく分かります。また、紅テントとか頭脳警察とか、日活ロマン・ポルノだとかまさかのギリヤーク尼ケ崎とか、あくまでカウンターカルチャーで構成されたエンタメ系の企画もまた、1970年代という時代をよくうつしたものだといえそうです。
学園祭中止が決定されたのはしかしこのあと3年目のこと。惜しむらくは、74年から中止に到る間のパンフレットがないことです。いかに政治的に或いはカウンターカルチャーとして大学や治安当局からみて脅威的なものだったのか…? 折あればこの後のパンフレットもみてみたいものです。

大学といえば入学して真っ先に教えられることのひとつに原理研には絶対に近づくなというのがありました。そこまであぶないカルト教団の関連組織がひらく講演会にのこのこ出張って登壇したり選挙応援を受けたりできる政治家の危機意識には仰天するばかり。政治家の常識、大丈夫なのか? そんなんで国まもれるのか? 
それもこれも、背景にあるのは某カルト教団と某政治家三代にわたる関係で…
という長い物語がこちらに。
それでも国葬が閣議決定されたとか。国葬についてはこういう問題も。
ニッ●ン末期・憲法気息奄々 …… 
 

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